2005 Jan 15 |
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センター試験 |
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今日明日とセンター試験ですね。
私の周りではもう受験するなんて人はいないのだけど、やっぱり気になります。 (大学当時に家庭教師していた教え子達も一番下の子が去年の春に高校を卒業してしまった・・・年を感じます) 私が通っていたのはいわゆるお嬢様学校で、センター試験とは無縁の学校。そんな学校からセンターを受けに行ったのは3年生240人中8名という少なさでした。 その日は長崎では珍しく小雪のちらつく朝で。すごく寒かったのを覚えています。靴の中にカイロを入れていったっけ。 何しろ8名。センターは学校毎に座るんじゃなかったからずっと孤独で。お昼休みにようやく友達と会っていろいろと話をしながらお弁当を食べて、一喜一憂したものでした。 そういえば、数学の時だったかなあ。トイレ行きたくて大変だったのですよ。試験時間の半分くらいがトイレで頭がいっぱいでした。 二日目はそのまま学校へ向かい自己採点をやって、最終的にどのレベルにいるか、志望校はどうするか…といった所まで話をしました。当時の担任はこの学校を後々半分進学校に変えてしまった程の先生で、その意気込みたるやすごかったです。 私は化学を専攻したくて受けたのに、一番良かったのは化学と国語という…使えない結果でした。特に数学がさんざんで。まぁトイレに行きたかったってのもあるのですが、所詮文系学校、数学なんてホントに時間を割いてくれなくて、当時で言う数U数Vといった分野(微分積分の応用辺り)は全く教えてもらえず独学でしたから、当然といえば当然なのかも。理系クラスと名付けられるクラスにいたのに、毎日英語の時間があって、数学は週に3回でした。あり得ない(苦笑) その後受かった大学もありましたが、結局もう一年頑張ることに。 父の反対もあって、浪人生活は自宅で。予備校には通っていませんでした。塾を夏ぐらいまで通っていたけど、物理を教えてくれていた男の先生と私が怪しいとかいちゃもんを付ける塾長に頭に来て捨てぜりふ残して辞めました(笑)ホント私あの頃は、自分の事でいっぱいいっぱい。恋愛どころじゃないって感じでした。とにかく自分しかいないのでだらけそうになるのを自分で戒めて…という生活にホントに疲れて、今までなかった顔にアトピーが一気に出来て外出もままならない状態に。ストレスも相当あったんでしょうね。家族に八つ当たりばかりだった気がします。 そんな苦しい一年を乗り越えて、ようやく二回目のセンター試験。一年目良かった国語は下がってしまったけど、それ以外は全部上がり、何とか国立大の化学へ合格出来た訳です。 でも…その受かった大学。後期で受けたんだけど、今思えば、試験は化学だけ、センターの点数は一年目でギリギリ…というレベルでした。だから一年目にもしそこを受けていたら受かっていたかもしれないなあと思ったりもします。化学だけはとにかく自信があったから。 でもでもあの一年は私にとってはきつい一年だったけど収穫も多かったし、それはそれで良かったんですよね。そう思う事にします。あぁでもきっとあの時に「誰にも頼らない」性格がすっかり確立されてしまったんだろうなあとも思いますが。 そういえば。高校在学時の一回目のセンターの時に、あの阪神淡路大震災が起こったんですよね。びっくりしたし、やっぱり自分と同じ立場の人の事が頭に浮かびました。センターまで受けて頑張ったんだろうになあ…って。あのときの衝撃が、今の地震への恐怖につながっています。きっと実際に遭われた方は私の比じゃないくらい地震が来た時に怖い思いをしているのでしょう。 さてさて。明日二日目。天気が荒れるようです。 受験生の皆さん、頑張って下さいね。新聞のセンターの問題を見ても、もはや化学以外は全く解けそうにない(化学も一部怪しい(笑))んで偉そうな事は言えませんけどね。 |
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2004 Nov 1 |
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新札発行 |
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今日二十年ぶりの新札発行。まだ手元にはないが、しばらくは違和感を感じ、おもちゃのような感覚だろう。あぁ二千円札も未だにおもちゃ感覚だが。
二十年前、私は小学校低学年。「小学○年生」でお札の特集があったのをよく覚えている。お札が出来るまでとかお札の人物紹介とか、ちょびっと難しく経済効果とか。お金をほとんど手にする事のなかった私は全くと言って良いほど関心はなかった。 というのも当時私はおこずかいなどもらっていなかったからだ。自分で何かを買うという事はなかった。クリスマスと誕生日は5000円までの好きなものを買ってもらった。ただし広告の商品を見て決めていたので、実際に買いに行った記憶もない。自分で払っていたのはせいぜいおつかいだけだった。 そんな私はたぶんお札の話が出た時に母に聞いた。「私が預けたお金はそのままなんでしょ」と。 当時おこずかいはなかったが、遠方に住む祖母からお年玉をもらっていた。そのお金はJAに預けていた。(田舎だったのだ。もちろん当時は農協) てっきりそのまま預けたお金が返ってくるんだと思っていた。違うと否定する母に驚いていろいろと自分なりの説を立ててわぁわぁ言って、最後は悲しくなり泣いた記憶がある。 遠方に住む祖母が三つ折りにして渡してくれた、祖母の触ったお金がなくなってしまう。 ものすごく悲しかった。 それでそれ以降農協に預けなくなった。馬鹿だから預けなくなったお金で田んぼでの宝探しをして、1000円を無くしたというエピソードまであったりする(苦笑) 今思えば祖母に「幾ら渡してね」と言われ、父か母の財布からでたお金だったかもしれないのだが。 離れている祖母とのつながりのような、そんな感じがしていたのだ。 だから銀行などの「預ける」という意味が自分の思っていたものと違っていてショックだった。 新札発行でいろんな経済効果もあるようだ。しばらくはきれいなお金が普通になるのだろう。 私と同じように思う子供はいないのかな、いないだろうな。 田舎育ちでホントに年より考えが幼かった私。それに今時の子供はもっとお金に触れる機会もあるだろうしね。 そうそう、娘は今お財布ブーム。自分のお財布を持ち歩き、子供銀行のお金をレジで出そうとする。微笑ましい光景だ。 |
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2004 Oct 10 |
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苦い思い出 |
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先日おくんちについて触れたが・・・。
実は私、おくんちに出損なった経験があるのだ。県外の人には一番知られている「蛇踊り」これの囃子をしていた事がある。 私が住んでいた町は踊り町ではなかったのだが、隣町が踊り町になっていた。(踊り町は持ち回りで、待ち毎に決まった出し物がある。7年に一度順番が回ってくる)しかしながらその町の子供だけでは足りなかったので、近隣の町が総出で参加したのだ。大人は蛇踊りを、子供は囃子を。 私は長崎に転校して次の年だった。おくんちはまだ一回しか見た事がなかったが、蛇踊りは有名だったし非常にわくわくした。おくんちの練習は6月1日の「小屋入り」から始まる。大きな公園に集まりそれぞれのパートを練習し、大人と合わせていく。毎晩だ。しかし学校の友達と夜も会って話したり練習したりするのは楽しかった。特に我が家は早く寝ることが習慣づけられていたため(小学生の当時8時)イレギュラーな日々に興奮したのだ。 地元では大きな祭りだ。そのうちローカルテレビなんかが「今年の踊り町特集」であちこち取材に来る。長崎市でもこうして踊り町になるのはごくわずかな町だけで、蛇踊りという花形(だと思っていた)に出られる自分は、まるで有名人のような気分だったのだ。 ところが。 ある日、貧血を起こした。 私は貧血をよく起こしていた。小学校入った頃から、時々ふらっと。倒れるまで立っている根性はなく、やばくなったら座り込む。でも顔面蒼白で誰から見ても貧血。その日はちょっと休憩し、練習が終わるまで頑張った。 数日後、母が町内会に呼ばれた。私はおくんちに出ない方がいいと言われた。当日は三日間歩きっぱなし立ちっぱなしだ。貧血を起こされるのは困る、という事だった。私が出られない以上、一つ下の妹も出ない事になった。こうしてある日突然、日常のスケジュールからおくんち練習が消えた。 練習をしていた友達には何も話さなかった。貧血が原因だとは知っていただろうし、きっと説明もあっただろう。関係ないクラスの友達には明るく話した。でもホントはすごく惨めな気分だった。 おくんちの日は、長崎市では公立の学校でも初日半ドンとなる。朝から同じ町内などの友達は欠席だった。やっぱりこの日もいろんな人に「どうして出ないの?」と聞かれたが明るくかわした。でもきっと顔は引きつっていただろうな。 やっとおくんちが終わり、欠席していた友達が出席してきても、おくんちの話はしなかった。後日友達の家におくんちに出たという証の置物みたいなものを見つけた時に、またしても苦い思いが蘇ったが何も言わなかった。 今でもおくんちがあると思い出す。その町が踊り町になった時にはちょっと苦々しい思いだった。 やっぱり出たかった。あんな経験絶対出来ないもん。仕方がないけどさ。 |
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2004 May 27 |
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石の滑り台とネコヤナギ島 |
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私が小学校中学年まで住んでいた所は本当に田舎だった。人口数千人、今平成の大合併に伴い当然のごとく近隣の市と合併が決まった。
そういう所は公園などない。遊び場は近所の川・田んぼ・畑・山。何もない所を自分たちで工夫して遊んだものだった。川で魚を捕まえ、木に登り、走り回って遊んだ。いつの間にか川で遊ぶ時用にままごとセットがたまっていったほどだ。田んぼではオタマジャクシを捕まえたり、シーズンオフには広場代わりに遊んだ。一度本物のお金で(お年玉だった)宝探しをしたら見つからなかった。田植えが終わったばかりの田んぼに体ごと落ちた事もある。よく泥だらけになって帰って母に怒られたものだ。泥だらけになったらお風呂洗いをさせられたが、今母になって思うのは洋服を泥だらけにされた時のショックは大きいなあということだ。いちお子供なりに川で体を洗って帰ったものだけど。 ところで、子供は秘密基地に憧れると思うのだが、私もまさにそうだった。ある時妹が良い場所を見つけた、と教えてくれた場所があった。「石の滑り台」と名付けた場所だ。そこは家から歩いて15分くらいの所にある神社を出発地点にして山道を上って到着するという、結構遠い困難な場所だった。山道もかなり今思うと危険な道で、一部雨で道がなくなりがけを飛び越さないと進めない所もあった。足を滑らせ落ちてもおかしくないような所を抜けていくと、頂上に大きな石がごろごろしていて、その石の一部が滑り台のように傾斜になっているのだ。石をそれぞれの家に見立てて遊んだり滑り台で滑ったり。ホントに誰も来ない秘密基地だった。妹は友達とたまたま遊んでいて(そもそも山道をあがっていくなんてすごいことだが)見つけたそうだ。 もう一つは家から割と近い所にあった。川の中州でネコヤナギがいっぱい生えているので「ネコヤナギ島」と名付けた。ネコヤナギが多いので、車の往来の多い道路に面しているものの私たちが遊ぶ姿は周りからは見えにくい。これが秘密ちっくで楽しかったのだ。 今思い返すと結構危険な所だった。特に「石の滑り台」はホントに一歩間違えれば大けがにつながっていたに違いない。その後私たちはその町を引っ越し、「市」と名の付く所に住むようになったのだが、遊び方は様変わりしてしまった。それはそれで楽しかったが、やはり大自然の中で遊んだ記憶はいつまでたっても消えることなく鮮やかに心に残っている。 その土地を離れて15年してから神社を訪れたが、結局入り口を見つける事は出来なかった。大人になってしまった私と妹は神社までの道のりすらきつかった。 今でも大きな石がごろごろしている光景を見ると懐かしくなる。ネコヤナギの時期になると思い出す。 私はそんな所で育ったので子供たちにはやはり大自然の中でいっぱい遊べる環境にいたいなあと内心思うのだった。実際はそうはいかないのだけどね。 |
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